Masuk最後の糸を切り、結び目を裏側に隠す。
ふと顔を上げると、窓の外が白み始めていた。時計の針は、朝の八時を回っている。 私はドレスをトルソーに着せかけ、全体のバランスを整えた。 差し込む朝日を受けて、生まれ変わったドレスが輝き始める。 無惨に裂けていた背中は、幾重にも重なるレースのグラデーションによって、蝶の羽のような優雅なラインを描いていた。 補強のために足したビーズが、朝の光を吸い込み、朝露のように煌めいている。「……綺麗だ」 背後から、感嘆のため息のような声が漏れた。 振り返ると、湊が目を見張っていた。 その瞳には、驚きと……隠しきれない称賛の色が浮かんでいた。「……こんなことが、可能なのか」 彼は吸い寄せられるように近づき、ドレスの裾にそっと触れた。「……ああ。魔法みたいだ」 彼が私を見た。 その瞳何か言い返そうと口を開きかけては閉じ、言葉を探している。 だが、圧倒的な「実力」の前では、どんな悪意も言葉も無力だ。「……文句はないようだな」 湊が、私の隣に立った。 彼は私の肩に手を置き、所有権を主張するように麗華を見下ろした。「約束通り、このドレスで会見に出ろ。……そして、二度と朱里の仕事にケチをつけるな」「みなと、さま……」「彼女は、僕が選んだ最高のパートナーだ。……お前のような人間が、彼女の価値を測れると思うな」 湊の言葉は、トドメの一撃だった。 麗華は顔を真っ赤にし、ドレスをひったくると、逃げるようにフィッティングルームを出て行った。「……覚えてなさい!」 捨て台詞を残し、ヒールの音を荒々しく響かせて去っていく。その背中は、以前のような威圧感はなく、ただの敗走者のそれだった。 静寂が戻ったサロン。 私は、糸が切れた操り人形のように、その場にへたり込んだ。「……つ、疲れた……」 指先がジンジンと熱を持って痛む。肩が鉛のように重い。 でも、胸の中は、嵐が去った後の空のように晴れやかだった。「……立てるか?」 湊が手を差し出してくる。 私はその手を取り、立ち上がろうとしたが、足がもつれてよろめいた。 すぐに、彼の腕が私を支えた。「……悪かった」 湊は、私の目を真っ直ぐに見て言った。 その瞳には、申し訳なさと、愛おしさが滲んでいた。「僕が不甲斐ないばかりに、君にこんな無理をさせた。……でも、君が誇らしかった」 彼は私の手を引き寄せ、傷だらけの指先に唇を落とした。 針で突いた小さな傷跡一つひとつに、敬意を払うように、優しく。「……痛かった
最後の糸を切り、結び目を裏側に隠す。 ふと顔を上げると、窓の外が白み始めていた。時計の針は、朝の八時を回っている。 私はドレスをトルソーに着せかけ、全体のバランスを整えた。 差し込む朝日を受けて、生まれ変わったドレスが輝き始める。 無惨に裂けていた背中は、幾重にも重なるレースのグラデーションによって、蝶の羽のような優雅なラインを描いていた。 補強のために足したビーズが、朝の光を吸い込み、朝露のように煌めいている。「……綺麗だ」 背後から、感嘆のため息のような声が漏れた。 振り返ると、湊が目を見張っていた。 その瞳には、驚きと……隠しきれない称賛の色が浮かんでいた。「……こんなことが、可能なのか」 彼は吸い寄せられるように近づき、ドレスの裾にそっと触れた。「……ああ。魔法みたいだ」 彼が私を見た。 その瞳は、恋する少年のように輝いていた。「朱里。……君は、すごいな」 その素直な称賛に、張り詰めていた糸がぷつりと切れそうになった。 嬉しい。 彼に、私の仕事(プライド)を認めてもらえたことが、何よりも嬉しい。 私はドレスをハンガーにかけ、麗華の待つフィッティングルームへと足を踏み出した。 ◇ 麗華は、ソファで退屈そうにスマホをいじっていた。 私が入っていくと、ふんと鼻を鳴らして顔を上げる。「あら、やっと? どうせ継ぎ接ぎだらけの……」 彼女の言葉が、途中で止まった。 口を半開きにしたまま、目の前に差し出されたドレスを凝視している。「……な、何よこれ」「修理完了いたしました」 私は胸を張って言った。 声は枯れていたが、そこには確かな力が宿っていた。「損傷が激しかった背面は、新たなレースをあしらってリデザインしまし
生地自体が引き裂かれている。普通なら、修復は不可能だ。 一から作り直す時間は、どうあがいても足りない。 でも。 ここで「できない」と言えば、私は本当に、彼に買われただけの「無能な人形」に成り下がる。「……やります」 私は裂けたドレスを、胸に抱きしめるように強く握りしめた。「直します。……いいえ、元通り以上にして見せます」「ふん。口だけは達者ね」 麗華が、呆れたように肩をすくめて嘲笑う。「見てなさい。……後悔させてあげるわ」 私はドレスを抱え、奥にある作業用のアトリエへと走った。 ◇ アトリエの照明を最大光量にする。 白い作業台の上に、無惨な姿のドレスを広げた。 針と糸、よく切れるハサミ、そして予備のレースやビーズの箱を並べる。 震える指を、深呼吸で無理やり鎮めた。 大丈夫。私はプロだ。 何百着ものドレスを直してきた。花嫁の涙を、笑顔に変えてきた。(……集中しろ) 湊のこと、麗華のこと、あの写真のこと。 頭の中に渦巻くすべての雑音をシャットアウトする。 世界には今、目の前の布と、私しかいない。 裂けた部分は、縫い合わせるだけでは傷跡が残る。 ならば、隠すのではなく、デザインを変えるしかない。 背中のラインを大胆にカットし、そこに別のレースを重ねて、新しい透かし模様(シースルー)を作る。強度が落ちた部分は、ビーズ刺繍で補強しながら、最初からそういう装飾であったかのように見せる。 チョキ、チョキ、というハサミの音が、静寂なアトリエに響く。 シュッ、シュッ、と針が布を通る微かな音。 時間は、残酷なほど早く過ぎていく。 空調が効いているはずなのに、額から汗が流れ、目に入って染みる。 焦りで指先が狂い、何度も針で突いた。指先に滲んだ赤い血を、布につかないように慌てて舐めとる。 それでも、手は止めない
◇ 深夜のブライダルサロン『フェリーチェ・ルーチェ』。 本来なら静寂に包まれているはずの店内は、ショーウィンドウの照明までもが煌々と灯され、異様な熱気を帯びていた。「……あら、来たのね」 一番奥にあるVIP用のフィッティングルーム。 そのソファに、綾辻麗華が優雅に脚を組んで座っていた。 彼女の足元には、無惨な姿になったドレスが、ゴミのように転がっている。 一目見て、息が止まりそうになった。 それは、私が湊のマンションに軟禁される前――最後に担当した、彼女のブランドの新作ドレスだった。 だが今は、背中のファスナー部分が大きく裂け、裾のレースは何かに踏みにじられたように黒く汚れている。「見ていただける? これ」 麗華は汚いものをつまむように、人差し指と親指だけでドレスの端を持ち上げた。「試着しようとしたら、ビリッといったのよ。……縫製が甘かったんじゃないかしら? それとも、経費削減で安い糸でも使った?」「そんなはずはありません!」 私は駆け寄り、ひったくるようにドレスを受け取った。 縫い目はしっかりしている。糸も、最高級のシルク糸だ。自然にほつれることなどあり得ない。 裂け目をよく見る。ギザギザとした断面。 これは……何かに引っ掛けたのではない。鋭利な刃物で切れ目を入れ、そこから無理やり力任せに引きちぎった跡だ。「……あなたがやったんですね」 私は顔を上げ、麗華を睨みつけた。「私が家から出られないのを知ってて……こんな小細工を」「あら、人聞きが悪いわね。証拠でもあるの?」 麗華はふふん、と鼻を鳴らし、涼しい顔で言い放った。「事実は一つ。……明日の朝九時からの記者発表会で着るはずのドレスが、この有様だということよ」 彼女は壁の時計に視線を流した。 現在は深夜三時。 あと六時間しかない。
「怖かっただろう。……守れなくて、すまない」 その抱擁は、私の身体の痛みを気遣うように優しく、そして彼自身の不安を埋めるように必死だった。 彼は怒鳴らなかった。「なぜ入れた!」と私を責めることもしなかった。 ただひたすらに、私が傷ついたことを恐れ、自分が招いた事態を悔いている。 その姿に、私の凍っていた心も少しだけ溶け出した。 その時だった。 彼の手の中で、スマホがけたたましく着信音を鳴らし始めた。 画面を覗き込んだ湊の表情が、険しいものへと変わる。『綾辻麗華』の文字。 一瞬の躊躇いのあと、彼はスピーカー通話のボタンを押した。「……何の用だ」『あら、湊様。……夜分遅くに失礼いたします』 スピーカーから響いた麗華の声は、昼間聞いたときと同じように、余裕たっぷりの甘い響きを含んでいた。まるで、自分の勝利を確信しているかのような。『お帰りになられたのね。……テーブルの上のプレゼントは、ご覧になっていただけた?』「……二度と敷居を跨ぐな。不法侵入で警察に突き出すぞ」 湊の声は低く、抑制されていたが、そこには明確な拒絶があった。『まあ、怖い。……でも、それどころじゃありませんわよ?』 麗華の声が、楽しげに弾む。『今すぐ、朱里さんを連れて「フェリーチェ・ルーチェ」にいらして』「何だと?」『大変なことになっているの。……朱里さんが手がけた私のドレスが、とんでもない不良品だったことがわかったのよ』 心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。 不良品? 私が直したドレスが?『明日の朝には、そのドレスを着て記者会見に出なければなりませんの。……どうしてくれますの? もし間に合わなければ……このサロンの信用は地に落ちますわね』「……」
電子錠が解除される乾いた音が、深夜の静寂を唐突に切り裂いた。 私は膝を抱えていた腕を解き、弾かれたように顔を上げる。リビングの時計の針は、とうに午前二時を回っていた。 重厚な扉が開くと同時に、冷たい夜気と、微かな排気ガスの匂いが流れ込んでくる。「……湊?」 入ってきた湊は、私を一瞥もしないまま、乱暴に革靴を脱ぎ捨てた。 ネクタイを緩める手つきには苛立ちが滲んでいる。オフィスの蛍光灯に長時間晒されていたせいか、その顔色は土気色に近く、目の下には濃い影が落ちていた。ここ数日続いている冷戦状態は、私だけでなく彼の神経も確実に削り取っているようだ。「……起きていたのか」「おかえりなさい」 私は立ち上がり、震えそうになる声を喉の奥で押し殺した。 視線を、ローテーブルの上へと滑らせる。 そこには、数枚の写真が扇形に散らばったままになっている。片付ける気にはなれなかった。彼が帰ってきたら、これを突きつけて問いたださなければならないと思っていたからだ。 リビングの中央まで歩を進めた湊が、不意に足を止めた。 眉間に深い皺を寄せ、鼻をひくつかせる。「……なんだ、この匂いは」「え?」「むせ返るような薔薇の香水だ。……気分が悪くなる」 彼は忌々しげに吐き捨てると、テーブルの異変に気づいたようだった。 視線が、写真に吸い寄せられる。 湊と、綾辻麗華。二人が身を寄せ合い、親密そうに微笑んでいる盗撮まがいの写真。 湊は無言のままテーブルに歩み寄り、長い指でその一枚をつまみ上げた。「……これは」「麗華さんが、持ってきたの」 私は、事実だけを淡々と告げた。感情を乗せれば、泣いてしまいそうだったからだ。「お昼頃、ここに来たわ。……合鍵を使って」「……鍵?」 湊の顔から、さっと血の気が引いていくのが見えた。